Kの謎解き
What's the meaning of РИН.

校舎から出てきた片塰叶夏を目ざとく捉えるなり、三原楓は何の躊躇いも見せずに校門を越えて高校の敷地へ駈け込んで来た。もちろん彼女はまだ中学生だ。
「事件ですよ、事件! 事件は事件、大事件ですってば!」周りの高校生に臆することなく、三原は大声で言った。どうやらすぐにでも伝えたいことがあるらしい。
「転校生でも来たの?」
無視するという選択肢もあったが、彼女のテンションからして話したくてどうしようもないのだろう。だったら、べたべたからまれる前にさっさと話してもらおうという算段で片塰は尋ねた。
「いえいえ、転校生は残念ながら……。でも、転校生よりもすごいんですってば」
さりげなく転校生に期待していたらしいことは置いておいて、片塰はさっさと歩を進める。三原と話しているところをあまり学校の人に見られたくない。
「実はですね、今日学校に行ったら、黒板にでっかくピー、エヌ、エイチって書かれてたんです!」
「へー」と相槌を打って、叶夏は歩き続ける。
自慢気だった三原の顔が、あれ、何だかおかしいぞ、といった表情に変化し、最後には「えっと……」と困ったように言った。「それだけなんですけど……」
「今日はどうするの?」
「あっ、あたしクッキー持ってるんです。丹下さんのところに寄って帰りましょうよ」ガサゴソと三原はそれを取り出した。「学校でもらったんです。どこでしたかね……。忘れましたけど、どこか旅行に行ったから、そのお土産って」
言われて見れば確かに、パッケージには英語とは少し違う文字が書かれている。片塰には読めないが、イラストからして中身はクッキーで間違いないようだ。
「じゃあ、朝日でジュースをもらいましょうか」言ってから片塰は財布の中身を思い出す。
果たして二人分の飲み物代を支払えるだろうか。

「やあ叶夏ちゃん。それに楓ちゃんも」
相変わらず客がいない店内へ。店長の丹下は快く二人を招き入れてくれた。
「丹下さんもどうです?」三原が彼にクッキーの袋を見せる。
「一応仕事中だからね。遠慮しとくよ」丹下はグラスを二つ棚から出した。「オレンジジュースでいいかな?」
「いえ、そんな、お気遣いなく」片塰は大袈裟に両手を振る。「水でも十分なくらいです」
三原が手近なテーブルでばりばりとクッキーを開封し始めると、丹下が手招きした。片塰が首を傾げながら近づくと、二枚の紙切れを握らされた。見るとそれはドリンク無料券だった。
水で十分だという発言と、その時の態度から勘付かれたらしい。
両手を合わせて、ありがとうございますと口の動きだけで伝える。
丹下は微笑むと、冷蔵庫から出したオレンジジュースをグラスに注いで、片塰に差し出した。それを持って三原がいるテーブルへ。
「もっと奥の席にしないと迷惑よ」
「えぇー、別に客いないしいいじゃないですか。混んできたら移動しましょうよ」
図々しいと思わないでもないが、テーブルを借りる代わりにクッキーを勧めたし、ジュースが欲しいとは一言も言っていない。三原の中では貸し借りは発生していないという計算になっているようだ。
これくらい図太くなれれば楽だろうな、と片塰は彼女を見て何度も思っている。
「まあいいわ」グラスをテーブルに置く。「で、ピー、エヌ、エイチの話だけど」
「え?」
「『え?』じゃなくて、あれだけ話したがってたのに忘れないでよ」
「あぁ、はいはい、あれですね。やっぱり気になります?」
「気になるというか、気持ち悪いわね。意味がわからなくて」三原の分のグラスを差し出す。
受け取った彼女はさっそくジュースを一口流し込んでから言った。「写真、見ます?」
「写真て?」
「撮っといたんですよ」言いながら三原はポケットから携帯電話を出して操作を始める。
「あなたの中学校、携帯の持ち込み許されてたっけ?」
「叶夏ちゃんの時代とは違うんですよ」見え透いた嘘をついてから彼女は画面を片塰の方に向けた。「ほらほら、これですよ、これ」
РИН
表示されている写真には、深緑の板にくっきりと白い文字でそれが書かれていた。
「ね、直接見ると、すごくないですか?」
すごいかどうかは別として、片塰はあることに気づいた。
「これ、エヌが左右逆になっているわね」
「え?」三原は画面を再び自分の方に向ける。「あっ、ホントですね。真ん中の斜め線が右上です。間違ったんですかね?」
「さあ。エヌを書き間違えることなんてあるかしら」
「もしかして、暗号かもですよ。エヌが逆になってるから……、ヌエ?」
「そんな妖怪がいるわね」
「いるんですか?」
「うん。日本版キマイラみたいなの。尻尾が蛇なのよね。他は覚えてないけど。でも関係なさそう。ピーとエイチもあるし」
「じゃあ、エヌが正しくなるように全部反転させてみるとかですかね」それはなかなか現実味のある案だな、と片塰は思った。三原は携帯を持っていない方の人差し指をくるくると回しながら考えている。指の回転から文字の反転にイメージを繋いでいるのだろう。「えっと、エイチはそのままで、エヌが正しくなって、ピーが……、数字の九? エイチ、エヌ、九。どういう意味ですかね」
「エイチ、エヌ……。ハンドルネームの略かしら。ハンドルネームが九。クラスに、ニックネームがキュウの人とか、いないの? キューちゃんとか」
「うーん、いないと思いますけど……。あたしが知らないだけかもです」
クッキーを食べながら二人であれやこれやと話していると「エヌがどうとか聞こえたけど、何の話? 北の話かな」と丹下が加わってきた。
改めて店内を見回すと、やはり客はいない。きっと暇だったのだろう。
「キタ? よくわかりませんけど」話すよりも見てもらう方が早いと考えてか、三原は携帯電話を彼に向けた。
「ほう」丹下が目を細める。カウンターから見るには少し距離があった。「面白いイタズラだね」
片塰も同意見だった。誰が書いたのかは知らないが、中学生という時点で意味を求めるのは間違いだと。
「えぇー」三原だけが不満気な声を上げる。「イタズラならもっと、シャッターの落書きみたいな派手なの書きませんか? 絶対意味がありますって、これ」
「そもそもイタズラって行為自体に意味なんてないでしょ」クッキーを片手に片塰は言う。
「イタズラだけど意味はあるみたいだよ」
「えっ?」片塰と三原の声が揃った。
「それはね……」丹下はカウンターに両肘をついた。「キリル文字だよ」
「キリル文字?」聞きなれない言葉についおうむ返しをしてしまった片塰。「どこで使われてる文字なんですか?」
「ロシアだね。キリル文字だとすれば、それはピー、エヌ、エイチじゃなくて、エル、イー、エンって読むんだよ」
「そうなんですか!」三原が声を上げる。「だって、英語のエルとイーと全然違いますし、エンなんて聞いたこともないですよ」彼女は指でテーブルをなぞってLとEを書いた。クッキーの油でうっすらと浮かんでいる。後で拭かないと、と片塰は思った。
「まあ、ロシアの言語なんて知らない人の方が多いよ」丹下は少しいやらしく笑った。「それ、なんて読むかわかる?」
「エル、イー、エンじゃないんですか?」三原が尋ねた。
「もちろん、ひとつづつ読めばそうだけど」丹下は片塰の通学カバンを指差す。「例えば英語だって、バッグをビー、エー、ジーなんて言わないよね」
「エル、イー、エン……」片塰は呟く。「レーン?」
「惜しいね。英語だとイーはエの音になることが多いけど、ロシア語はそのままなんだ。だからそれは『リン』って読むんだよ」
「あっ!」三原がパチンと手を叩いた。「ロシアですよ、ロシア!」彼女は目の前に広げられたクッキーを一枚手に取った。「これ、ロシアのお土産でした。しかもくれた子、リンって名前です」
「ああ、なるほどね……」そこまでわかれば片塰には十分だった。「よっぽどロシアが楽しかったのね。それで、黒板の文字を書いた。それが『リン』だって読める人とならロシアの話ができるだろうから」
言いながらクッキーを口へ運ぶ。
こんなに美味しいものがある国へ行ったのだ。それは楽しかったに決まっている。


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