単発ショート
笑顔

僕を闇から救い出した彼女は笑う。
「どうして笑っていられるの?」僕は訊いてみた。
 それほどに屈託のない笑顔だったのだ。
「だって、面白いんだもの。あなたの顔」
「僕の、顔?」
 残念ながらここに鏡はない。いったい僕がどんな顔をしているというのだろう。
「あなたは、笑わないの?」彼女が言う。「私の顔も、面白いでしょう?」
 僕は改めて彼女の顔を見る。こうしてまじまじと見つめるのは初めてだった。まず目を見る。しかし彼女の穢れを知らない瞳のまぶしさにあてられてすぐに目を逸らしてしまった。目元。鼻先、唇、顎と下がって、頬、耳、額、髪と上がる。一通り確かめてから、再び彼女の目に僕の視線は戻った。今度は逸らすことなく見ていられた。何秒ほどそうして見つめあっていただろう。胸のあたりで何かが湧いた。それは首まで上がってきて、喉、口、そして外に出る。それは笑いだった。
 僕は笑ったのだ。
「ほら、面白いでしょう?」
「そうだね」僕は応える。「すごく、面白い。どうしてだろう」
「理由なんてないわ。人は面白いの。それだけ」
「それだけ?」僕は訊き返す。
 しかし僕は変化に気づいていた。もはや彼女が発する言葉さえ面白く感じる。さっきまではそんなことなかったのに。
「それだけで十分なのよ。人は面白い。それを知っているだけで、十分」
「うん」僕は納得していた。「知れて良かった。君のおかげだ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」そう言う彼女の顔を見れば、どれほど嬉しいのか僕にもわかる。彼女は立ち上がった。「なら、あなたもそれを知らない人に教えてあげて。私があなたにしたように」
「そうだね」僕も立つ。
 彼女は今日一番の笑顔を見せると、僕に背中を向けた。あれほどの笑顔を一瞬しか僕に見せないなんて、もったいない。彼女の顔を今この瞬間に見ているものはいないのだ。それでも彼女は笑っているのだろう。誰に見せるでもなく、人の面白さを知っている彼女は笑う。
 だから、僕も笑っていよう。


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